兵庫県更生保護施設連盟の沿革

兵庫県更生保護五十年誌(平成13年3月27日、兵庫県保護司会連合会発行)から抜粋

開港直後の神戸市内は、労務者の失業、外国人殺傷事件(神戸事件)、豪雨による湊川・生田川の氾濫のための災害発生、(1868) 鳥羽伏見の戦い、全国的な凶作等が重なり、無宿者、浮浪者、犯罪者があふれ、治安も乱れて、騒然とした状態であった。

明治3年、このとき回漕業を営んでいた関浦清五郎氏により、無宿者保護のための人足屯所、百人部屋が建設された。これが県下における近代更生保護事業及び更生保護会の濫觴である。

明治22年、内務省からの「民間保護会社を設立し、刑余者を保護善導し、自立の道を立てさせるべき旨」の順令に基づき、民間人による免囚保護事業が相次いで計画され、明治31年、出獄者保護会が創立されたのを始めとし、県下各所に保護会が設立され、釈放者、少年の保護がなされてきた。

昭和17年ころから戦争の激化に伴い、更生保護会の廃止が要請され、ほとんどが解散、休会又は産業青少年練成道場等になった。終戦後、精神・物資両面における国民生活の動揺から、犯罪現象の増大が見られ、刑事政策の面からいろいろと検討され、更生保護事業が、戦前と比較にならないほど大きな役割を持つようになり、これが昭和24年の犯罪者予防更生法、昭和25年の更生緊急保護法の制定となり、戦前の司法保護事業法にとって代わり、国の行う刑事政策の姿にそのまま展開して拡充強化されたので、休会していた更生保護会も復活して経営認可を受け、さらに組織を財団法人に改めた。

そして、神戸保護観察所管内の更生保護会が、相互の連絡協調と更生保護事業の強化発展に資するため、戸上直人、脇坂良昭の両氏が中心となり、昭和25年4月、兵庫県更生保護会連盟を組織した。その後、平成8年4月の更生保護事業法施行に伴い、財団法人は更生保護法人に組織変更となり、更生保護法人が設置・運営する保護施設は更生保護施設と称されることになったことから、平成9年5月19日に兵庫県更生保護施設連盟と改称し、現在に至っている。

なお、この間、昭和25年11月には、洲本市に財団法人自成会が、明石市に財団法人明石錦江寮が、そして神戸市に財団法人神戸善照会が、それぞれ設立されたが、自成会は昭和45年8月に、明石錦江寮は昭和56年9月に、神戸善照会は平成2年3月に、いずれも廃止されている。